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創価命斗

soukameito.exblog.jp

創価学会に入会して27年経ち30周年記念日までの平凡な日記。

兄弟抄

時代背景
本抄は文永12年1275年4月日蓮大聖人が身延の地から池上宗仲・宗永の兄弟に送られたお手紙です。池上兄弟は大聖人の立宗宣言から3年後の建長8年頃に入信したと伝えられています。四条金吾と同じ頃の入信であり草創からの門下です。兄弟の記録は残っていませんが大聖人の佐渡流罪という大難の嵐の中でも不退転で信心を貫いてきたことは間違いありません。池上兄弟が入信してほぼ20年になる頃大きな苦難をうけ、兄の宗仲が父安光から勘当されたのです。信心をやめさせようとする圧迫でした。この大試練に直面した池上兄弟に対して断じて負けるなと渾身の信心指導されたお手紙が兄弟抄です。兄弟の父安光は念仏の強信者でまた、真言律宗の僧極楽寺良観の信奉者でもありました。そのため兄弟の信心に反対し続けていました。良観は当時世間から生き仏のような尊敬を集める一方巧みに幕府権力に取り行って大聖人に迫害を加えていた黒幕の存在でした。竜の口の法難佐渡流罪も背後で良観の策謀があったことは御書の随所に厳しくきゅう弾されています。池上宗仲の勘当も背後に良観の陰謀があったと大聖人は喝破(かっぱ)されています。単なる親子喧嘩ではないのです。信心の苦難には必ず背後には魔の働きがあるのです。池上家は幕府の建設土木関係の仕事をする家柄であり、兄の宗仲はその地位を継ぐべき立場にありました。勘当とは親子の縁を切ることです。そうなると兄の宗仲は家督相続の一切の権利を失い生活基盤を根底から脅かされることになります。さらに兄の勘当によって弟の宗永には家督を引き継ぐ権利がまわってきます。そこには父親に従って法華経を捨てれば家督を継げるばかりか世間からも孝行息子として評価されるという誘惑があります。兄の勘当は兄弟の仲を裂き弟を退転させようとする企みでもあったわけです。だからこそ大聖人は勘当された兄だけではなく弟の信心を心配され兄弟二人を対告衆とされているのです。苦難のない人生はありません、人間誰しも人生の上で大なり小なり苦難の半生があります。特に正しい信仰を貫く人生には必ずそれを妨げる難が起こってくるのです。本抄で大聖人はこの難の本心を様々な角度から論じられています。1つは難は第六天の魔王が取り憑いた悪知識が起こすものだということです。次に難にあう意義として転受享受の法門が解かれます。難にあうことで自身の過去世の謗法の罪のむくいを現世に軽く受けて消滅させているというのです。更に難は諸天善神が与える試練だという意義も示されています。つまり難にあうことは自分の仏道修行を完成させていく推進力になるのです。また、親の反対という難があっても信心を貫くことが最後には親を救っていく真実の親孝行になると教えられています。そして大聖人は紛然と競い起こる三障四魔と闘いぬく信心を強くすすめられ、兄弟また、婦人たちも団結して難を堂々と乗り越えていくよう指導されています。本抄はまさに難を乗り越える真髄を教えられた御書です。この兄弟抄を送られたあとも池上兄弟の苦難は続きますが二人は大聖人のご指導どうりに果敢な信心を貫き数年後、ついに猛反対していた父の信心を勝ち取ることができたのです。


解説
「この法門を申すには必ず魔しゅったいすべし魔競はずは正法と知るべからず」とあります。この妙法を説き実践するならば必ず魔が現れるというのです。なぜ、必ず魔が起こるのかそれは法門が深く正しいからです。一念三千の法門は我が生命に仏界が備わることを教え根本の迷いである元本の無明を打ち破り生命を根底から変革しうるほうもんです。ゆえに、その反作用ととして変革さすまいという働き元本の無明の働きである魔がきそうのです。ここでこの法門を申すには、つまりこの法門を人に説くならばに特に注意したいとおもいます。自分ひとりで瞑想して修行するのではないのです。社会に打って出て仏法を語るのです、人々を折伏するのです。この広宣流布の戦いをするならば必ず魔がおこるといわれているのです。「だい5の巻・・・・・・・・・・・・」等云々、とあります。ここは天台大師の摩訶止観をふまえて信心とは魔との闘争であると教えられています。「行解すでにつとめぬれば」この行解とは仏法の修行と正しい理解です。行・学といってもいいでしょう。その根幹は自行化他の実践です。勇気の折伏です。広宣流布のための行動です。私達がそれを進めていった時こそ、いよいよ三障四魔が競ってくるのです。ですから、池上兄弟が約20年も信心してきてなぜ、いまさらのように大難が起こったのかその理由もここにあります。信心に励んできたのにどうゆうわけか難にあったのではなく、信心に励んできたからこそ難に巡りあったのです。三障四魔、これらが紛然と競い起こるというのです。紛然の紛という字は糸がからみあってほどき難いという意味です。要するに入り交じって見分けがわからず正体が見分けられない。だから魔に従ってはならない、おそれてもならないのです。だから勇気がなければならない、だから、臆病であってはならないのです。そして、「この釈は日蓮の・・・・・資糧とせよ」摩訶止観のこの釈は大聖人ご自身の身にあたると言われています。師匠が自ら身で読まれたのです。そして、弟子である門下にも信心修行の明鏡とせよとまた未来の指針にせよと言われているのです。師弟不二なのです。師匠である大聖人と同じく弟子のあななたたちも三障四魔・三類の強敵を決して恐れずに決して従わず断じて勝って仏になりなさいと教えられているのです。
by soukameito | 2012-04-14 23:46 | 御書